2010/04/18

■可視範囲内で飼い殺す■

昨日今日で、祖母の通夜と告別式があって家族で出席。仕事で関わるのとはまた違ったタイプの大人が見える。身内家族の集まり。
滅多に顔を合わせないぎこちない親達の中で、必死に自分の親としての管理ぶりを見せたい母。もう随分前から、彼女の頭の中にいる息子は今の自分とは程遠い知らない人物。父親が単身赴任を初めた12年前から、母の心のキャパの狭さはどんどんとあらわになり続けている。父親が帰ってきた今も、更年期障害が元々ヒステリックな性格に拍車をかけていて、普段から自分の頭の中に描いていた事とほんの少しでも違う事が起きたらすぐに混乱しながら怒りだす。そして、その事に対して図星をつかれてしまったら、もう知らないと言って、日常での全ての役割を放棄。勝手に全部一人でやってろという始末。


こういう風に批判的に思えるのは、反抗期をきっかけに順調にすこしづつ親の管理下から自立していく過程を歩んでいる証拠。でもみんながそうとも限らない。最近よく話す後輩は、大学生になってもまだ小学生並みの「親に管理された安全」に囲われて過ごすという。


大人の頭の中にある囲いは時に子供の可能性を殺す。そうして大人の独善的な管理の元にいる子供達は、親が許した範囲を超えた話題やコミュニケーションに対してアレルギーを起こしやすくなったり、社会に提示された目に見えるものに価値を求めるようになる。寛容に深く物事に向き合える広いキャパが作られない。
そうやって歳を重ねていって、ついには自分の幸せすらも自分の外にある「マニュアル化された幸せ」の中から探そうとする。結局自分の外にはそれは見つからないまま妥協点を探す人生を送る。そして子供ができた暁には彼らに、自分の見つけられなかった「幸せ」を目に見えるものの中から探し出し、それを価値あるものとして背負わせる。
ネガティブスパイラル。


不謹慎にも、葬儀中にお経をBGMに考えてた日本の現状とその原因の一端。






とかいってる求職中のニートは今日も物質的に親を頼る。

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